2015年09月10日

情熱大陸|日本バスケットボール協会会長_川淵三郎(78)

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情熱大陸
日本バスケットボール協会会長
川淵三郎(78)


東京オリンピックのサッカー日本代表だった川淵さんは、かつて不人気スポーツだったサッカーのプロ化を推し進め現在の形をつくりました。どうせ失敗するとの声も上がりましたが、強力なリーダーシップで、地域密着型のプロスポーツの新しい形を定着させました。

2015年1月、国際試合の出場停止という窮地に追い込まれたバスケット界は川淵さんに再建を一任しました。指導力を見込まれてバスケットボール改革を託された川淵さんですが、そこには根深い問題が横たわっていました。

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日本のバスケットボールリーグは長らく企業チームを中心に発展してきました。完全プロ化を望む声もありましたが、業界の統率がきかず叶いませんでした。そして、10年前、反発したチームが男子だけのプロリーグを発足させ、分裂したリーグは選手そっちのけで対立を続けてきたのです。

それを問題視した国際バスケット連盟は2014年11月に国際試合出場停止という厳しい制裁を科しました。制裁解除の条件は3点でした。リーグの統合、協会の統率力の確立、日本代表の強化でした。

川淵さんがすぐに打ち出したのは、1部から3部までのピラミッド型のプロリーグでした。Jリーグに習って地域密着の独立採算制でのチーム運営とし、1部リーグ参加の条件を数字をあげて示しました。

1部リーグ参加の条件
5000人規模のホームアリーナの確保
年間2億5000万円以上の売り上げ
地域密着

川淵さんが再建を託されてからおよそ6ヶ月後、その指導力のお陰で制裁は解除されました。さらに9月5日には、日本女子代表バスケットボールチームが中国を大差で破りオリンピック出場を決めたのです。その試合を自宅で見ていた川淵さんに試合後インタビューすると、選手の頑張りに目から涙が溢れていました。

川淵さんの生い立ち

1936年大阪生まれの川淵少年は、運動神経抜群で中学では野球部に入部しました。サッカーをはじめたのは高校時代、先輩に誘われて断れずに入部したのがきっかけでした。大学受験には2度失敗し2浪の末、早稲田大学に合格しました。28歳で出場した東京オリンピックのアルゼンチン戦ではゴールを決めました。大学卒業後は古河電工に入社し、現役引退後は営業マンとして仕事に没頭していました。サラリーマンとしての経験は現在の指導に大いに役立っているといいます。

ロスタイムにチャンス有り

サッカーを辞めたら会社員として出世したいとの想いを持っていた川淵さんでしたが、51歳の時営業部長として順調に成績を伸ばしていた矢先、ある日突然、子会社への出向を命じられたのでした。左遷でした。

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覚えていたのが左遷を命じた人事担当者が直接話をしてくれなかったことでした。以来、大切な話は自分の言葉で面と向かって伝えることにしているといいます。そしてもうひとつ、ロスタイムにこそチャンスがあると考えるようになったといいます。


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posted by CYL at 16:00 | 情熱大陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月31日

情熱大陸|車いすテニス選手_上地結衣

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情熱大陸|車いすテニス選手_上地結衣

世界を駆け抜ける21歳
負けず嫌いの夢と孤独


21歳の若さで日本の頂点に立つ車いすテニス選手、上地結衣。その動きはどこまでも俊敏で力強い。プロ2年目の2014年、史上最年少で年間グランドスラムを達成し、日本人女性初の世界ランキング1位に輝きました。小柄な体格を活かして車いすを自由自在に操作し、いま目指すのは自分にしかできないテニスです。

生い立ち

1994年兵庫県生まれの上地選手には、脊椎の病で生まれつき両足に病がありました。車いすテニスに出逢ったのは11歳の時、周囲は大人ばかりでしたが、練習すればするほど上達できるテニスに夢中になりました。人一倍の負けず嫌いだった上地選手は瞬く間に頭角を現し、14歳で日本ランキング1位、16歳でジュニア世界ランキング1位に輝きました。

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車いすテニスとは

コートの広さもネットの高さも一般のテニスと変わらない車いすテニスですが、唯一の違いは返球が2バウンドまで認められているところです。車いすの重さは10キロ以上あります。とっさの方向転換やブレーキはすべて腕の筋力にかかっています。打点も視点も低くなる車いすから、ネットを超えるボールを打つことは簡単ではありません。そして、椅子が体の一部と見なされ腰を椅子から浮かすことは禁じられています。

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15歳から世界を転戦

上地選手は、15歳の頃からひとりで世界の転戦を重ねてきました。海外遠征にコーチを呼べるのは大きな大会だけだといいます。まだまだ認知の低い車いすテニスは、優勝しても賞金は少なく、ウィンブルドンでさえ200万円どまり。旅費だけでほとんど消えてしまうこともあるといいます。

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自分にしかできないテニス

試合がない日の練習は朝から7時間行われ、指導するのは高校時代から同じコーチだといいます。2014年から実家を離れ、練習コートに近い大阪で一人暮らしをはじめた上地選手がいま取り組んでいるのが、バックハンドスピンです。

現在の課題|バックハンドスピン

女子の車いすテニスでは、比較的楽に低いバウンドのボールを打ち込めるため、ラケットを振り下ろすバックハンドスライスが主流です。一方でラケットを振り上げてボールを打つバックハンドスピンは山なりのボールとなってバウンドが高くなります。車いすでは高いボールが打ち返しにくいため、甘い返球を誘って自分のチャンスボールにできるといいます。

ただし、バックハンドスピンを打つためには、並外れたパワーが必要なため、女子選手はほとんど使いません。上地選手はバックハンドスピンを習得し、自分にしかできないテニスに挑戦しようとしているのです。

上地選手は、バックハンドスピンを実戦で試行錯誤しながら、結果と同じくらい試合の内容、どれだけ自分のテニスができたかにこだわって試合を続けています。その目は、来るリオオリンピックを見据えています。
posted by CYL at 14:20 | 情熱大陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

情熱大陸|詩人_谷川俊太郎

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情熱大陸|詩人_谷川俊太郎



どんな作品を書いているのかわからなくとも「谷川俊太郎」という名前を見かけたことは、誰もがあることでしょう。翻訳を手がけたこともあれば、絵本に作品を提供することもある、テレビアニメ「鉄腕アトム」の主題歌を作詞し、小学校の国語の教科書で谷川さんの詩に触れたひともいることでしょう。谷川さんの作品は私たちの血となり骨となっています。そんな詩人としての半生は絶えず新しい表現を生み出すことに費やされてきました。

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1931年東京生まれの谷川さんは、戦時中は空襲にも遭った経験を持ちます。疎開先の京都で終戦を迎えたとき13歳でした。帰京して高校に進んだ谷川さんは次第に学校になじめなくなり、友人の勧めで詩を書き始めました。大学進学を拒否した谷川さんには将来の展望も見えなかったといいます。

ただ、高名な哲学者だった父の徹三がノートに目を留めたことで運命が開けました。谷川さんは、詩を書きためたノートを父親に見せたといいます。父親は詩人三好達治にノートを託し、三好に高く評価された作品は、そのまま処女詩集「二十億光年の孤独」として出版されました。幸運なスタートでした。

3度の結婚と離婚を経験した谷川さんは、私生活の波も詩のモチーフにしています。誰にも訪れるのに表現するのが難しい、そんな体験に言葉を与えてきたのです。


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posted by CYL at 18:29 | 情熱大陸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする