2015年04月20日

NHKスペシャル 第1回”戦後”はこうして誕生した 安全保障と沖縄

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沖縄と安全保障

1947年5月6日
アメリカ大使館公邸でマッカーサーと4度目の会談に昭和天皇はのぞみました。

その会談で昭和天皇は新憲法で軍備を持たなくなった日本の安全保障についてマッカーサーに問いかけました。マッカーサーは「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである。この点については十分ご安心ありたい」と回答をしています。

マッカーサーが極東防衛の拠点として位置付けていたのが「沖縄」でした。沖縄は当時、アメリカ軍の支配下にあり住民の土地は次々と基地に姿を変えていました。

芦田外務大臣は講和にあたり沖縄の返還を主張しました。1947年6月の記者会見で「沖縄は日本経済にとってたいして重要ではないが、日本人は感情からいってこの島の返還を希望している」と語っています。しかし、マッカーサーは1947年9月国務長官あての文書で「もし琉球諸島の確保に失敗するならばアメリカに軍事的破滅をもたらすだろう」と記しています。

そんなとき、アメリカ国務省に一通の文書が届けられました。「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」と題されたいわゆる「天皇メッセージ」です。「天皇はアメリカが沖縄をはじめ琉球諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領はアメリカの利益になり日本を守ることにもなる。」さらに、「日本に主権を与え、長期租借という形で行われるべき」と記されていました。

この文書は、沖縄を切り捨てたという意見と、租借という形で日本の主権を確保したという2つの見方がありますが、現在ではアメリカの政策決定にどのような影響を与えたのかはわかっていません。(それを判断する十分な資料がまだ揃っていません)

1949年10月1日、国民党との内戦に勝利した共産党が中華人民共和国 建国し、1950年6月5日には朝鮮戦争が勃発しました。国内では平和をもとめて東西両陣営と講和をすべきという声が高まっていましたが、アメリカは日本を反共産主義の防波堤と位置付けていたために西側諸国との講和を急ぎました。

1951年9月8日
サンフランシスコ平和条約調印
沖縄は日本から分離され、敗戦から約7年でGHQによる占領が終わり再び主権を取り戻しました。







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NHKスペシャル 第1回”戦後”はこうして誕生した 巡幸、天皇退位論

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巡幸はじまる

1946年1月
天皇陛下の側近にGHQからメッセージが届けられました。そこには天皇を自ら日本中をまわり、国民の話を聞き話をするべきだと書かれていました。”巡幸(じゅんこう)”をすすめるものでした。GHQは天皇を自らが国民を励ますことで混乱した社会を安定させようとしたのです。

1946年2月19日
神奈川県 巡幸
昭和天皇はGHQの考えに大いに同意をし巡幸がはじまりました。それは戦後のはじめて国民が目にした”人間天皇”でした。昭和天皇はスーツ姿で国民の前を歩いていました。国民は黙ってお辞儀をして迎えました。当初はまだ国民と天皇のあいだには距離があり戸惑いが感じらました。巡幸で重点的に訪れたのは復興の鍵になる農村や工場、そして将来を担う子供たちのもとでした。次第に黙ってお辞儀をしていただけの国民に変化が起き、巡幸先では群衆が押し寄せ万歳をするようになったのです。


天皇退位論
新聞に民主化にために天皇の退位について東大教授が書いた記事が掲載されました。

当時の世論調査
天皇の退位についてどう思うか
在位 68.5%
譲位 18.4%
廃絶 4.0%
わからない 9.1%
読売新聞1948年8月15日

天皇の協力の下で占領政策を進めてきたマッカーサーは天皇退位論に懸念を抱いていました。

1948年11月12日
東京裁判でいわゆるA級戦犯のうち7人に死刑が宣告されます。同日マッカーサーへ昭和天皇のメッセージが届けられました。そこには国民とともに日本を再建する決意を新たにしたと記されていました。

また昭和天皇の側近の稲田周一元侍従長が綴った未公開資料「稲田の備忘録」から、マッカーサーから退位しないでほしいという要望が昭和天皇にあったことが記されていました。


1947年5月3日
日本国憲法施行
日本国内では独立を求める声が高まってきました。講和条約を締結にむけて連合国との交渉を担当したのは外務大臣芦田均さんでした。昭和天皇から国際情勢について質問をされ「米ソの関係悪化のため戦争が始まる可能性はゼロではない」と昭和天皇へ伝えました。

その頃、世界ではソ連によってポーランドが共産化され、中国では共産党と国民党の内戦が激化するなど、共産主義が勢力を拡大していました。

昭和天皇は「日本としてはアメリカと同調すべきでソ連との協力は難しいと考えるが」と申された(「芦田日記」より)と記されているとおり、独立に向けて西側陣営との協調をすべきだと示されました。

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posted by CYL at 10:33 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKスペシャル 第1回”戦後”はこうして誕生した 象徴天皇誕生

NHKスペシャル
戦後70年ニッポンの肖像

日本人と象徴天皇
第1回”戦後”はこうして誕生した


日本人は戦後どのような歳月を過ごし、どのように焼け野原から立ち上がってきたのでしょうか。連合国の占領下から再び主権と取り戻すまでの約7年間を象徴天皇となった昭和天皇と国民にスポットを当ててみていきます。



象徴天皇誕生


アメリカの世論調査
連合国軍総司令官マッカーサーは軍国主義から日本を民主化するためにやってきました。天皇の処分をどうするのか、アメリカでは厳しい意見があったことが、終戦直後のアメリカで行われた世論調査から浮かび上がっています。

「戦後 天皇をどうすべきか」

殺害する 36%
処罰、国外追放 24%
裁判で有罪なら処罰 10%
戦争犯罪人として処遇 7%
不問に処す 4%
その他 19%

(ギャラップ社)


1945年9月27日午前9時55分
昭和天皇はマッカーサーに会うためにアメリカ大使館にむけて皇居を出発しました。そこで昭和天皇は占領政策に協力することをマッカーサーに伝えました。一方のマッカーサーは国民の絶対的存在である昭和天皇を占領政策に利用することを考えていました。

1945年11月30日
大元帥昭和天皇が率いていた陸海軍が解体されました。昭和天皇は6人の侍従武官に自らの軍服を渡しました。侍従武官の日記には「最後の軍服を着て頭を下げてすすり泣きになった」とあります。


日本国民にわずかな変化が
アメリカ戦略爆撃調査団の聞き取りでは、「生活さえ楽にしてもらえれば天皇様も誰もいらない」「天皇は責任者とは言えないと思う。そういくと天皇自身がと床の間置物式になってくるだろうと思う」と戦時中では考えられないような意見が国民の中にありました。一方で世論調査では天皇が必要と答えるひとが95%いました。


新憲法の制定
戦争犯罪人を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)で連合国軍側では天皇を処罰すべきと考えるひとがいました。マッカーサーは天皇の権威を利用するために新しい憲法を制定して体制が変わったことをアピールすることにしたのです。

1946年2月13日
吉田茂外務大臣がGHQから憲法の草案を手渡されました。その第1条は
The emperor shall be the symbol.
政治的な権力をもたない象徴とされていました。これを承認しないと天皇の地位を守ることはできないとGHQ側は迫りました。

日本政府としては天皇の地位をかえるつもりはなかったために議論が紛糾していましたが、昭和天皇が日本政府に象徴でよいと伝えたといいます。しかし、天皇直轄機関である枢密院では”象徴とは何か”が議論となりました。一方で、国民の間では食料不足で「憲法よりまず飯だ」と皇居前におよそ25万人が押し寄せました。

1946年11月3日
日本国憲法発布

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posted by CYL at 10:27 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年04月12日

NHKスペシャル 幻の山「カカボラジ」灼熱のジャングルから凍てつく雪山へ2

NHKスペシャル
幻の山「カカボラジ」
灼熱のジャングルから凍てつく雪山へ
その2

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<250kmのキャラバン>

9月12日
ヤンゴンを出発しプタオに到着しました。そこで待っていたのは不吉な知らせでした。先に出発したミャンマー隊の隊員2名が山頂付近で遭難したというのです。

エベレストに比べると標高は低いのですが、岩壁、氷壁、氷河など多くの難関を超えなけば頂上には辿りつけません。その上、雪が柔らかく不安定なため高い技術だけでは踏破することは難しい山なのです。

9月15日
ベースキャンプまでのキャラバンが始まりました。到着は3週間後の10月2日を予定していました。

雨季とはいえ強い日差しが降り注いていました。そして様々な生きものとの出会いがありました。ミャンマー北部地帯には動植物の研究者がほとんど足を踏み入れていない場所です。

はじめてミャンマーで確認された植物がユリ科の植物ヤブカンゾウです。花びらが幾重にも重なり美しい色と形をしています。そして、木の上に根を張って花をつけているのはラン科デンドロビウム・フッケリアヌムです。

9月19日
激しい雨で小川から溢れ出した水で山道はまるで川のようになってしまいました。湿度が90%を超え蒸れて雨合羽を着ていられません。山ビルという人間の体温を察知して寄ってきた招かれざる珍客も姿を表しました。

9月20日
ラボ村に到着し民族衣装をまとったリス族やラワン族という少数民族が出迎え歌でもてなしてくれました。山岳民族にとってカカボラジは聖なる山ですが、意外なことに山の姿を見たことがないといいます。

9月21日
出発から1週間目の朝ポーターたちが休みたいと言い出したのです。ポーターたちはふだんは農業をする人たちでひとり20キロの荷物を背負っているのです。土地のひとのペースに合わせることになりこの日のキャラバンは中止となりました。

登山隊が登頂を目指すのは雨季と乾季の変わり目で一番天候が安定している時期を予定しています。その期間を過ぎると雪が降り登頂は困難になります。

この時点での遅れは3日でした。先を急ぎたい登山隊の前にたちはばかるのは竹でできた粗末な吊り橋です。吊り橋が切れないようにひとりずつ渡るため大幅な時間をロスとなりました。

10月4日
ベースキャンプへの道中、最後の村となるタフンダン村に到着しました。先に遭難の情報があったミャンマー隊捜索の拠点となっていて村は騒然としていました。遭難者は3週間たった今も見つかっていませんでした。

この村にはカカボラジの登頂に成功したメンバーのひとりナンマー・ジャンセンさんがいました。登山隊はジャンセンさんから情報収集を行いました。

1時間に5回以上天候が変わること、当時に比べて氷河の状態が良くない雪崩の危険性が増し登頂が難しくなっていることを聞きました。

10月12日
キャラバンスタートから28日目ジャングルの上空にカカボラジの山頂の姿が見えました。

カカボラジは鳥が羽根で包み込む山のという意味です。いつも雲に包まれていて見えない山だからです。その姿をはっきりと見ることができるだけでも幸運なのです。

予定より1週間遅れてベースキャンプに到着しました。日中山肌の温められて空気が雲になっていました。まさに名前の通り包み込む山です。そして谷からは雪崩れが発生していました。

<登頂アタック>

雪崩の危険性を考慮して大きく迂回して尾根を2.5km歩いて山頂の右側から登るルートを選択しました。

ひとつだけリーダーには不安がありました。それはベースキャンプからは手前の尾根に隠れて山頂へ続くと思われる尾根を確認できない部分が1箇所あることでした。現場に行ってみなければわかりません。

10月21日 登山隊はベースキャンプを出発しました。登頂まで3日の予定です。1日目は4000mのベースキャンプから登り5000mでキャンプを張りました。そして2日目に5400mまで登りキャンプを張ります。そして3日目に尾根をたどり山頂を目指すことにしました。

2日目、晴天の尾根からは中国雲南省の山々が見えヒマラヤ山脈の東端ナムチャバルワ(7782m)を望む大パノラマが眼前に広がっていました。そして夜空には満天の星空が広がっていました。

3日目、いままで一番良い天気に恵まれ午前6時に山頂を目指して歩き始めました。岩の峰を越えると山頂が目の前に見えました。山頂まで700m、気にしていたあの場所でした。山頂までの繋がっていると思っていた尾根は深い谷になっていたのです。谷に下りてルートを探しますが尾根は完全に途切れていました。さらに天候が悪化し吹雪となり視界が閉ざされてしまい登頂を断念しました。

山頂までの標高差230m、あと一歩のところでした。ベースキャンプにも雪が降り始めて登頂のチャンスと思われた時期は過ぎていきました。


posted by CYL at 18:37 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKスペシャル × 幻の山「カカボラジ」灼熱のジャングルから凍てつく雪山へ

NHKスペシャル
幻の山「カカボラジ」
灼熱のジャングルから凍てつく雪山へ
その1

<カカボラジ>
ミャンマー最高峰5881m
軍事政権下では近づくことさえ許されませんでした。謎に包まれた山に日本人登山家が挑みまいした。カカボラジは鳥が羽根で包み込む山のという意味です。いつも雲に包まれていて見えない山だからです。その姿をはっきりと見ることができるだけでも幸運な山なのです。ミャンマーの山岳民族にとってカカボラジは聖なる山ですがその姿を目にしたことがない人がいるほどです。

中国、インドとの国境地帯に聳え、山の麓にたどり着くには240kmの道のりを歩いていかなければなりません。しかもその道のりはジャングルなのです。切り立った岩壁に囲まれたカカボラジの山頂はひとの侵入を拒んでいるように見えます。登山隊はこれまで誰も登ったことのないルートから山頂を目指しました。灼熱のジャングルから凍てつく雪山への旅路です。

これまでカカボラジの入山は外国人の立ち入りが制限されてきましたが民主化を進める政府から18年ぶりに許可がおりました。

日本人3人の登山隊
リーダー 倉岡裕之さん
中島健郎さん(29)
平出和也さん(35)

世界最高峰のエベレストは年間300人ほどが登頂する中、78年前に英国人がはじめて探検して以来登られたのは僅かに1度だけです。カカボラジはいまなお謎に包まれた山です。

ジャングルを抜けた雲の中にある秘境の中の秘境なのです。ミャンマー最北部のカチン州にあります。首都ヤンゴンからプタオという町まで飛行機で移動します。町からカカボラジの麓のベースキャンプまで250kmのキャランバンとなり全行程2ヶ月の冒険です。

つづきを読む カカボラジへ250kmのキャラバン・登頂アタック




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