2015年06月04日

NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」5

NHKスペシャル|戦後70年ニッポンの肖像
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その5


<なぜ日本企業は長い停滞から
抜け出せなかったのか>
理由その2 IT技術革新



IT技術革新 ハードからソフトへ
90年代アメリカのシリコンバレーでは、IT技術革新が起きていました。それは、これまでのものづくりの概念を変えるものでした。

三洋電機元会長の井植敏さんは、消費者が選択視が厳しいため日本で売れるものは世界でも売れると考えていましたがそれはハードウェアの話で、システム、ソフトウェアとなると話は別だと語ります。

三洋電機は、人を大切にする経営から効率化に舵を切り人員削減を行いましたが、結局それが会社の体力をすり減らす結果となり、2012年三洋電機の洗濯機と冷蔵庫部門がハイアールに買収されました。その後、三洋電機はパナソニックの傘下に入りSANYOというブランドは消えてしまいました。

名目GDPの国際比較(シェア)1995年から2013年
中国 2%から12.5%へ
日本  17.5%から8%へ
アメリカ 25%から22%へ


金融システムの違い
アメリカは直接金融で、銀行などを介さずに市場から直接資金を調達するため、企業は問題があればすぐに処理しないと会社が潰れてしまいます。

それに対して、日本は間接金融で銀行などを通じて資金を調達するため、銀行からの資金が続く限り問題を先送りできます。スピードが求められるグローバル競争で立ち遅れてしまった要因のひとつとされています。

中国に資金と技術が
いままで発展途上国では規格大量生産はできないとされてきました。規格大量生産に必要なのは3つ、人、技術、資金です。例えば、中国では人はたくさんいますが、技術と資金がありませんでした。しかし、アメリカの投資銀行が中国に資金を提供しています。投資銀行は長い視点で儲かる投資先として中国に投資しているのです。さらにコンピュータの普及で技術を獲得し、あっという間に先進国に追いついたのです。

人件費が安い中国と同じ商品をつくっていたのでは太刀打ちできません。アップルは中国で商品を製造していますが、中国と競争するのではなく利用するのが得策です。

そしてアップルにみるようにアメリカは、スマートフォンのような新しい発明とブランド化の両輪で上手にビジネスを行っているのです。

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NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」5

NHKスペシャル|戦後70年ニッポンの肖像
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その5


<なぜ日本企業は長い停滞から
抜け出せなかったのか>
理由その2 IT技術革新



IT技術革新 ハードからソフトへ
90年代アメリカのシリコンバレーでは、IT技術革新が起きていました。それは、これまでのものづくりの概念を変えるものでした。

三洋電機元会長の井植敏さんは、消費者が選択視が厳しいため日本で売れるものは世界でも売れると考えていましたがそれはハードウェアの話で、システム、ソフトウェアとなると話は別だと語ります。

三洋電機は、人を大切にする経営から効率化に舵を切り人員削減を行いましたが、結局それが会社の体力をすり減らす結果となり、2012年三洋電機の洗濯機と冷蔵庫部門がハイアールに買収されました。その後、三洋電機はパナソニックの傘下に入りSANYOというブランドは消えてしまいました。

名目GDPの国際比較(シェア)1995年から2013年
中国 2%から12.5%へ
日本  17.5%から8%へ
アメリカ 25%から22%へ


金融システムの違い
アメリカは直接金融で、銀行などを介さずに市場から直接資金を調達するため、企業は問題があればすぐに処理しないと会社が潰れてしまいます。

それに対して、日本は間接金融で銀行などを通じて資金を調達するため、銀行からの資金が続く限り問題を先送りできます。スピードが求められるグローバル競争で立ち遅れてしまった要因のひとつとされています。

中国に資金と技術が
いままで発展途上国では規格大量生産はできないとされてきました。規格大量生産に必要なのは3つ、人、技術、資金です。例えば、中国では人はたくさんいますが、技術と資金がありませんでした。しかし、アメリカの投資銀行が中国に資金を提供しています。投資銀行は長い視点で儲かる投資先として中国に投資しているのです。さらにコンピュータの普及で技術を獲得し、あっという間に先進国に追いついたのです。

人件費が安い中国と同じ商品をつくっていたのでは太刀打ちできません。アップルは中国で商品を製造していますが、中国と競争するのではなく利用するのが得策です。

そしてアップルにみるようにアメリカは、スマートフォンのような新しい発明とブランド化の両輪で上手にビジネスを行っているのです。




posted by CYL at 10:21 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」4

NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その4



<なぜ日本企業は長い停滞から
抜け出せなかったのか>
理由その1 新興国の台頭


1989年バブルが最高潮に達した年、世界では、米ソ冷戦終結し、社会主義が終焉をむかえ資本主義が世界に広がりを見せていました。韓国などの新興国が台頭し、中国が市場経済参入し、世界の工場へと変貌を遂げていきました。

一方の日本では金融機関破綻や企業倒産が起こりリストラや非正規雇用が拡大し長引くデフレに突入していきました。

20年の停滞
国家の経済規模を表す名目GDPですが、2013年の数値を20年前と比較してみます。1993年を100とすると日本の値は97.4とほとんど変わっていません。それに対して韓国は447.8と4倍に、中国に至っては1609.9と16倍になっているのです。

SANYOブランドが消滅
三洋電機元会長の井植敏さんがインタビューに応じてくれました。三洋電機は1947年に井植さんの父で松下幸之助さんの義理の弟にあたる井植歳男さんが創業しました。

国産初の噴流式洗濯機を開発するなどユニークな商品で会社は急成長をしました。1986年に社長に就任した井植さんは、世界一の企業を目指しますが、次第にグローバル競走に荒波に飲み込まれていきます。

中国や韓国の台頭
90年代、韓国のサムスンが技術力を背景にグローバル企業へと変貌を遂げます。技術力の背景には、日本の技術者のヘットハンティングもありました。

中国ではハイアールという企業が登場していましたが、井植さんがはじめて知ったのは2001年にハイアールを視察した時でした。10年以上その存在を知らなかったといいます。視察をして感じたことは、油断している間に中国企業がこれほどまでに成長してきていたことに驚愕したといいます。もっと早く気がついていればと後悔の念を語りました。

なぜもっと早く気がつかなかったのか
三洋電機の元社員で現在ハイアールのアジア統括を務める西澤さんは、バブル崩壊当時、国内市場の競争に明け暮れていたといいます。バブルの市場がまたくると思って日本市場ありきでビジネスしていたといいます。

当時国内では価格競争が起こっていました。価格競争から抜け出そう考えた企業は、こぞって新機能の開発に舵を切りました。音、消費電力などで他社との差異を出そうと考えました。

しかし、高い機能がのちにグローバル競走の足かせになってしまいました。高機能で高価な商品は世界では中国や韓国に価格で負けてしまったのです。

1993年から2010年の三洋電機、サムスン、ハイアールの売り上げの伸び率をみてみると三洋電機がほぼ伸び率0なのに対して、サムスンは5倍、ハイアールは90倍に成長していました。



posted by CYL at 10:10 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年06月03日

NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」3

NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像 
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その3


<なぜバブルは膨らんだのか>
理由その3 勘違い


日本の自動車と半導体がアメリカを抜いてトップに躍り出ました。1979年にはJapan as No1という本がアメリカで出版され、日本の製造業の強さに注目が集まりました。

産業構造の転換だった
実際にアメリカでは製造業の競争力が低下していました。しかし、このときアメリカでは製造業から金融や情報産業への産業構造の転換がはじまっていたのです。のちのIT技術革新へと繋がっていくのですが、日本には、アメリカ経済が弱くなったとしか見えませんでした。

アメリカでは、70年代末から80年代にかけて規格大量生産の製造業はダメだという考えが広がっていました。それまでの技術革新は、大型化、大量化、高速化でしたが、80年代から省エネルギー、情報化、多様化の技術になっていきました。

そんなアメリカでは製造業が衰退しサービス産業が発達するというのが正し方向だったのですが、当時はそれがわからずに、アメリカ経済が弱くなったとしか見えなかったのです。

日本が強いからこそアメリカ市場で勝っているという”勘違い”が根底にあったために、地価が上昇しても、株価が上昇しても当たり前だと考えられていたのです。つまり、日本は21世紀に向けて大成長するのだから土地が上がり、株が上がるという神話を人々は信じていたのです。

<なぜバブルははじけたのか>

株価急落、利上げ、不動産融資への総量制限
年が明けた1990年1月株式市場で異変がはじまりました。株価が下落に転じたのです。阪和興業の北社長は巨額の損失を出して社長を辞任、本業回帰をして経営再建まで8年間の歳月を費やしました。1997年11月には山一証券 損失隠しで自主廃業に追い込まれました。

地価急落
日銀の利上げ、大蔵省による不動産融資への総量規制、銀行の姿勢が一変しました。これまで受けてきた銀行から融資が急になくなり、麻布建物の元社長 渡辺喜太郎は、バブル崩壊により会社は破綻してしまいました。




posted by CYL at 19:21 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」2


NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像 
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その2


<なぜバブルは膨らんだのか>


理由その2 プラザ合意後の金融緩和

バブルの引き金とされる1985年9月のプラザ合意は、アメリカが求めるドル安を先進5カ国が協調して目指すことを決めたものでした。背景にあったのはアメリカの巨額な貿易赤字です。そんな中で深刻だったのが日米貿易摩擦でした。

円高誘導、金融緩和を日本に求めた
アメリカにとって円高(ドル安)が進めば日本からの輸入価格の上昇に繋がるため、輸入を押さえる効果が期待できます。円高が定着した後に日本が金融緩和を行えば国内の資金量が増え景気が刺激されます。そこにアメリカ製品の輸出を拡大し貿易赤字を解消しようと考えていました。

アメリカFRB元議長 ポール・ボルカーさんは、「日本の産業にはこの時期競争力でも効率性でもアメリカは太刀打ちできませんでした。日本に追い越されてしまう事態だったのです。」と語ります。

一方で日本側で交渉にあたった大蔵省元財務官の大場智満さんは、「日本はアメリカの傘の下だと。日米同盟で日本の経済力が強くなってきたのもアメリカの軍事力が日本をカバーしてくれているからだということは僕は十分わかっているわけです。だから、まとめなければいけないというのは非常に強く思っていました。」と語ります。


利下げでバブルが加速
1986年1月、日本銀行が金融緩和を行いました。公定歩合の引き下げを行ったのです。公定歩合とは日銀が銀行にお金を貸し出す際の金利です。公定歩合を引き下げる(利下げ)と銀行へ資金が流れやすくなり市場の資金が増えるのです。

短期間に複数回利下げが行われたことによって銀行から不動産業への融資が拡大し地価の上昇が拡大していきました。この時、日銀の中でバブルへの危機感が高まっていました。

なぜ利上げを行わなかったか
プラザ合意以降、1ドル=240円台だった円が1年後には150円台となり急速な円高が進んでいました。円高の影響は、日本国内の輸出産業を直撃します。いわゆる円高不況です。

危機感を募らせた当時の宮沢大蔵大臣がアメリカに飛びました。円高が進まないようにべーカー財務長官に協力を求めるためでした。しかし、ベーカー財務長官は円高に歯止めをかけることを保留したばかりか、逆に日本側へ”さらなる利下げ”を要求したのです。

利上げを進言するが・・・
日銀では利上げをすべきという意見がありました。その中心にいたのが日銀生え抜きの副総裁三重野康さんでした。大蔵省出身の澄田総裁に「利下げは不可だ」と進言した記録が残っていました。

しかし、1986年10月31日、先行きの内需拡大、内需振興に有効だとして日銀の澄田総裁は、会見でさらなる利下げを言及したのです。

同日、宮沢大蔵大臣がベーカー財務長官と合意した共同声明を発表しました。円高の進行を抑えるアメリカの合意を取り付けたかわりに利下げを行ったというものでした。

利上げ議論に水を差したブラックマンデー
日銀の理事の間では早く利上げに転じるべきという議論が持ち上がっていました。しかし、その矢先に1987年10月にブラックマンでーが起こりました。ニューヨーク市場を株価の大暴落が襲ったのです。

株価の暴落はアメリカから日本、世界へと伝播していきました。日銀は利上げをすれば経済の混乱を招く可能性があるとして利上げの機運は一気に萎みました。その後、公定歩合の議論はぱったり行われなくなり、利上げを行ったのは1989年5月でした。その間バブルの膨張は続いており、1989年12月29日、東京証券取引所大納会で株価は38000円を超えていました。





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