2015年06月22日

NHKスペシャル|戦後70年ニッポンの肖像〜世界の中で第3回〜

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NHKスペシャル|戦後70年ニッポンの肖像


世界の中で
第3回”平和国家”の試練と模索



70年前、日本とアメリカは激しい戦争を繰り広げました。戦後、平和国家として歩み始めた日本は、アメリカと同盟関係を結び、そのもとで日本は驚異的な経済成長を遂げ、先進国の仲間入りを果たします。ところが1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西の冷戦が終結したことによって日本は国際社会の荒波に飲み込まれていきます。

冷戦後、激動する世界と向き合った日本の姿を外交という視点から追いました。冷戦が終わり各地で起こる紛争、そしてテロとの戦い、新たな驚異にさらされた日本は国際社会の一員として、自ら責任を果たすことを求められました。その後、国際世論が割れる中、アメリカがはじめたイラク戦争、日本はどこまでの役割を担うのか、自ら判断することを迫られました。

下記の期間における日本の外交にから見えてくる平和国家の試練と模索を紐解いていきます。

1989 ベルリンの壁崩壊
1991 湾岸戦争
2001 米同時多発テロ事件
2003 イラク戦争

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湾岸戦争|顔の見えない支援

米ソの歴史的な会談で44年続いた冷戦の終結が宣言されました。それからおよそ1年後、日本外交は試練に直面します。イラクのクエート侵攻によってはじまった湾岸戦争です。国連の安全保障理事会はイラクに対する武力行使を容認する決議を採択しました。そのため日本を含むすべての加盟国に支援が求められました。当時の海部内閣で外務大臣を務めていた中山太郎氏にアメリカのベーカー国務長官から思いがけない要望があったといいます。それは、戦後、一度も海外での任務についたことのない自衛隊の任務を含む支援でした。

日本は国連の多国籍軍に協力するため自衛隊の派遣を検討しました。そのとき急遽作られたのが「国際連合平和協力法案」です。自衛隊を海外に派遣して、物資の輸送など後方支援を行うとしていました。当時外務省で法案造りに携わっていた柳井元条約局長は、自衛隊を派遣しなければ日本は国際社会で孤立しかねないと考えたといいます。「国際社会の平和と安定から日本は多くの利益を得ているにもかかわらず、国際社会の平和と安定を放っておくことはできない。それには積極的にかかわっていかないといけない」と柳井氏は語ります。

法案廃案|戦費の支援のみ

法案が国会に提出されると野党は強く反発し、国会での審議は紛糾しました。国会では物資の輸送などをした場合、多国籍軍の武力行使と一体化し、憲法に違反するという指摘が相次ぎました。世論の反対(61.4%)も強く結局、法案は廃案となりました。自衛隊の派遣を見送った日本は、戦費など130億ドルを負担しましたが、戦争終了後、クエート政府が感謝の意を示した新聞広告には日本の名前はありませんでした。お金は出したが、日本の顔が見えなかったことで国際社会からの評価はとても低いものでした。


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PKO|顔の見える支援

冷戦後、世界各地で地域紛争や民族対立が頻発しました。そんな中で日本は顔の見える外交を模索していきます。国連が進めるPKO(国連平和維持活動)への参加でした。1992年の宮沢内閣のとき、停戦後の平和維持に限り自衛隊を海外へ派遣するPKO協力法案が国会で審議されました。野党の強い反対の中、法案は可決されます。1992年9月、カンボジアに派遣された自衛隊は、停戦監視やインフラ整備を実施し、内戦後、カンボジアではじめて実施された国民総選挙に大きな貢献を果たしました。

その後、1993年モザンビーク、1996年ゴラン高原に自衛隊を派遣し、国連の枠組みの中で国際貢献を続けました。湾岸戦争のときに揺らいでいたアメリカとの関係も見直されました。それは東アジアで緊張が高まったためでした。北朝鮮で核開発疑惑が浮上したのです。また、台湾近海において中国が大規模な軍事演習を行い、アメリカが空母を派遣する事態が起こります。日本とアメリカは、アジア太平洋地域での協力を強化して日本が地域の安定に向けて努力することで合意しました。(1996年4月日米安全保障共同宣言 クリントン大統領と橋本龍太郎首相)

90年代は”経済国家”に「安全保障」や「国際貢献」をプラスした時代となりました。


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アフガニスタン攻撃|後方支援

2001年9月11日同時多発テロ事件により、この日を境にテロとの戦いの時代へと入っていきます。アメリカはアフガニスタンが事件の首謀者をかくまっているとして攻撃を開始しました。日本をはじめ国際社会も支持を表明し、日本はテロ対策特別法を成立させ、自衛隊をインド洋へ派遣しました。アメリカ軍への給油活動など後方支援を展開し、各国から評価されました。

しかし、2002年国際社会の結束に亀裂が生じます。きっかけはブッシュ大統領がイラクが大量破壊兵器を開発していると避難したことでした。国連の枠組み内で活動を続けてきた日本は、イラクへの武力行使へと舵を切っていくアメリカの動きを警戒していました。


イラク戦争|フランスとドイツが反対

当時外務省で事務次官を務めていた竹内行夫氏は、アメリカが国連の決議なしで攻撃に踏み切るのではないかと危機感をもっていたといいます。日本はイギリスと連携をしてアメリカに国連の枠内で行動するように働きかけを行いました。そのおかげでブッシュ大統領は武力行使は国連の決議によって行うことを宣言しました。一旦は日本外交が成功をしたことで、アメリカとの同盟関係の形が見えて瞬間でしたが、その後日本は外交的に難しい立場に追い込まれていきます。

国連安保理でフランスやドイツがアメリカの武力行使に強く反対したため、国際社会は大きく二つに割れてしまったのです。世界各地で反戦デモが起こり、イラクに本当に大量破壊兵器があるのか査察を続けるべきだという声が高まります。そんな中、ブッシュ政権内ではイラクに対して強硬姿勢をとっていた国防総省の発言力が強まります。

アメリカは、アメリカを支持する国々との有志連合による攻撃を辞さない考えをもっていました。外交による戦略が行き詰まる中で日本は判断を迫られます。イラク攻撃に2ヶ月前、竹内行夫氏から小泉首相へ提案がなされていたことが明らかになっています。提案とは日本は民生復興支援に主導的役割を果たすべきだというものでした。アメリカのイラク攻撃は避けられないとして開戦前から自衛隊の派遣を検討していたのです。

2003年3月、アメリカは国連決議のないままイラクとの戦争に踏み切ります。小泉首相は各国に先駆けてアメリカへの支持を表明しました。日本がアメリカを支持した背景には、核開発を進める北朝鮮の存在があったといいます。大量破壊兵器を開発するイラクにきちんと対応することを示すことで、日本は北朝鮮に対してもしっかりと対応することを国際社会に示すことを意図していました。

イラクではアメリカが大規模な戦闘終結宣言を行ったあとも戦闘やテロが相次いでいました。日本に来日したローレンス国防次官補代理は、日本に対して人道復興支援ではなくイラクで治安の維持にあたるよう求めてきました。当時、防衛庁防衛局長だった守屋武昌氏は、戦闘が続くイラクで自衛隊を派遣することは憲法上難しいことを伝えたといいます。

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イラク戦争|人道復興支援

2004年1月、人道復興支援のために自衛隊をイラクへ派遣しました。そのために作られたイラク支援法では自衛隊の活動地域は、戦闘が行われないとされる”非戦闘地域”に限られるとされました。撤退する2年半の間、自衛隊の宿営地にはロケット弾が13回打ち込まれました。オランダなど現地の部隊に守られ、幸い犠牲者を出すことなく任務を終えました。


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イニシアチブ|人道支援や復興支援

テロがアジアやアフリカなど世界各地に広がり混迷を深める時代に入り、日本外交は主体性を発揮できる外交を模索しています。日本が得意としてきた人道支援や復興支援でアメリカを補完し、テロや紛争の再発を防ぐことに力を入れています。

その先駆けとなったのがアフガニスタンでの活動でした。荒廃した街の復興を担いテロの新たな温床とならないようにする取り組みでした。日本はアメリカやヨーロッパなど世界83の国と国際機関を東京の招いてアフガニスタン復興支援会議を主催しました。日本は農業支援やインフラ整備などこれまでに58億円の支援を実施してきました。これらの活動はアメリカをはじめ国際社会から高く評価されました。

フィリピン|和平の仲介役

アメリカにはできない役割を日本外交が担い、和平合意に結びついたケースがあります。その地域はフィリピン政府とイスラム武装組織との戦闘が続いてきたフィリピンのミンダナオ島です。アジアでのテロの温床になりかねないと日米が懸念してきた地域でもありました。現地では対テロ戦争を続けるアメリカへの強い反発がありました。

こうした中、和平に向けた取り組みを行ったのが日本です。2006年に元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏はイスラム武装組織のトップと会談し、開発支援をはじめました。しかし、その後戦闘は激化し各国が引き上げる事態となりますが、反対に日本は人員を増やしました。戦闘が続く中で学校建設などの支援を続けました。リスクを背負いながらも継続した支援により信頼を得た日本は、和平の仲介役に指名されます。イスラム武装組織のトップとフィリピン大統領によるトップ会談が日本で行われたのです。この会談がのちの和平合意への転機となりました。(2014年ミンダナオ包括和平合意)

踏み込んだ支援で信頼を勝ち得た日本、70年前の戦争からアジアの大国となった日本が大事な役割を果たす責務があると緒方氏は指摘します。「フィリピンという国は日本が戦争をした場所です。だらか日本にとってフィリピンの復興・発展はある意味で責任がある」と緒方氏は語ります。


posted by CYL at 17:44 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月08日

「NHKスペシャル」生命大躍進|第2集「こうして”母の愛”が生まれた」2

大躍進その1|母乳誕生へ

大躍進その2 我が子を身ごもる


祖先をおそった試練
いまから約2億5000万年前、母乳による子育てを行うようになった祖先達は大繁栄してさまざまな姿形へと変化して種類を増やしていました。中でも、もっとも子孫を増やしていたのはディイクトドンで、家族が巣穴に寄り添って暮らしていました。

そんな中、突然、地球内部から膨大な量の溶岩が吹き出しました。時にその高さは2000mにもなったといいます。噴火活動は約100万年続き、その影響で地球上の生物種の96%が絶滅したと考えられています。

ほ乳類の祖先はどうなったのか
中国で発見された私達の祖先ジュラマイアは、体長10cmと巨大噴火のあと小さな姿になっていました。化石を調べると子育てを激変させる大躍進が起こっていました。卵を産むのではなくお腹の中で子どもを育てるつくりに体が変化していたのです。

ジュラマイアは赤ちゃんをお腹の中で育てる臓器”胎盤”を持つ動物であることがわかりました。現在、胎盤をもつ動物はすべてジュラマイアの子孫なのです。胎盤は、赤ちゃんのへその緒の先にある特別な臓器です。母親の子宮に密着して栄養や酸素を母親から受けとっています。

私達の祖先はもともと受精卵を殻で覆い外に産み落としていました。それが卵でした。あるとき不思議な変化が起きました。受精卵の中にある赤ちゃんの尿を溜める袋が発達し母親の体の一部に密着したのです。これが胎盤となり子どもは母親の胎内にとどまって育つようになります。それは体の小さな祖先が生き残るために重要な意味を持っていました。

胎盤をつくるために獲得した
新しい遺伝子


PEG10遺伝子という胎盤を作るのに必須の遺伝子が1億6000年以上前に突如出現し、その後、ほ乳類に受け継がれたことがわかりました。そんなPEG10遺伝子に似ている遺伝子があります。それは、さまざまな病気を引き起こすレトロウィルスです。調べてみると特徴づける2種類の遺伝子がPEG10遺伝子の中にも存在していることがわかりました。

仮説として考えられたのが、レトロウィルスが祖先の体内に入り込んでPEG10ウィルスになったというものです。それを証明するかのようにウィルスからもらったと思われる不思議な能力が胎盤にはあります。母親の免疫を抑えるという能力です。親子であっても時に血液型すら違う別人ですので、異物として母親の免疫から攻撃されるのが普通ですが、胎盤が母親の免疫を抑えてそれを防いでいるのです。レトロウィルスも免疫からの攻撃をされること避けるために、免疫を抑える力を持っています。

胎盤誕生の瞬間へ
いまから約1億6000万年以上前の地球を支配していたのは恐竜でした。小型で胎盤をもった私達の祖先は恐竜から逃れながら生きていました。そんな中、レトロウィルスに感染し、仲間内で感染が拡大しました。感染したものが次々と命を落とし、絶滅の危機に追い込まれます。

そのとき奇跡が起こりました。生き残った祖先の体内で子孫を残すための細胞”生殖細胞”にたどり着いたレトロウィルスは細胞の中に遺伝子を送り込みます。目指すは細胞の中心部 祖先のDNAが詰まっている場所です。

私達の祖先のDNAにたどり着いたレトロウィルスのDNAは、祖先のDNAをハサミのようなもので切断し、自らのDNAを祖先のDNAに組み込みました。これこそが後に胎盤を生み出すことになるPEG10遺伝子です。

この事件以後、子孫にPEG10遺伝子が代々受け継がれるようになりました。そしてあるときPEG10遺伝子が活動を開始し、急速に胎盤を発達させていきました。そして母親の免疫を押さえ込み、異物である我が子をお腹の中にとどめられるようになったのです

1億6000万年をかけて
その後の進化で胎盤の能力が強化されて子どもを身ごもる期間が長くなりました。赤ちゃんはより安全な母親の胎内で大きく育ち生まれてくるようになります。その代わり母親は身重で生きる苦労を背負わされることとなります。

大きくなるお腹を見つめる日々は、生まれてくる我が子への愛情をはぐくみ掛け替えのない時間となっていきます。出産時、胎盤からのサインをうけて母親の心に大きな変化が起こることがわかっています。脳内で特別なホルモンが放出され我が子への愛情が一段と強まっていくのです。



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posted by CYL at 12:42 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「NHKスペシャル」生命大躍進|第2集「こうして”母の愛”が生まれた」1


「NHKスペシャル」生命大躍進


いままで生命の進化は、少しづつ変化しながら進化してきたと長らく考えられてきました。しかし、それだけでは説明できない事象が存在していました。その謎を解き明かす鍵は私たちの姿形を定める情報であるDNAにありました。DNAの激変が進化の大ジャンプを引き起こしていたのです。

第2集(全3集)
「こうして”母の愛”が生まれた」


最新技術であらゆる生物のDNA解析が可能になったことで、人間の愛情深い子育てが意外なきっかけで始まったことがわかったのです。もともとは卵を産んだらそれきりだった私達の祖先ですが、あるときDNAが劇的に変化して子育てをするようになりました。そんな劇的な変化の影に地球規模の天変地異と突如広がったウィルスが関係していました。


大躍進その1 母乳誕生


母乳の進化を研究するスミソニアン環境研究所のオラフ・オフテダル博士は、なぜ母親が愛情深く子育てをするようになったのか、そのきっかけは母乳にあると考えています。母乳による母と子の密着が愛情に繋がったというのです。

はじめは卵を守る汗だった
子育てを始めた私達の祖先は「キノドン」だと考えられています。キノドンの母親が子どもにぴたりと寄り添った状態の化石が発見されたからです。一体どんな子育てをしていたのでしょうか。

キノドンの子育てを現代に伝える生きた化石がオーストラリア・タスマニア島にいるハリモグラです。地球上に生きる生物の中でキノドンに一番近いとされる原始的なほ乳類です。ほ乳類でありながら卵を産むハリモグラは、皮膚から白い液体を出します。原始的な母乳は乳首はなく皮膚の表面から出ています。ハリモグラは卵がかってから約200日間にわたり子どもと密着して母乳を与え続けます。

実は、ハリモグラの白い液体は卵がかえる前からわき出して卵を濡らしています。成分を
分析した結果、2つの物資が見つかりました。それは、αラクトアルブミンという甘い栄養分をつくるタンパク質、いわば母乳の素と、もう一つがリゾチームという殺菌力をもつタンパク質です。ハリモグラはこれらを含む母乳で卵を雑菌が防いでいると考えられています。2つのタンパク質はともに複雑な形をしていますがほとんど同じ形をしているのです。それはなぜなのでしょうか?

母乳誕生の瞬間へタイムトリップ
今から約3億年前、恐竜が登場するより遙か昔、トカゲのようなディメトロドンは、太陽の熱を背中に突き出た、まるで船の帆のような体の一部で集めていました。体温を高めて活発に動きまわるためです。

この頃、ほ乳類が生物界の王者でした。しかし、子育ては容易ではありませんでした。薄い膜で覆われた卵を産み落としますが、雑菌が入り込むと卵は死んでしまいました。そのため殺菌物質リゾチームを含んだ汗のような液体で卵を濡らして雑菌の繁殖を防いでいました。私達の祖先が行った子を守るための営みの第一歩です。

そのとき、殺菌物質リゾチームをつくるDNAに変化が起きました。遺伝子から作られるタンパク質の形がわずかに変わりました。こうして生まれたのがαラクトアルブミン、母乳の素になる物質です。

つまり、母乳の起源は殺菌物質リゾチームを含んだ汗のような液体でしたが、それがあるときに変化して母乳の素となるαラクトアルブミンを含む栄養豊富な液体に変わったと考えています。

母親の汗に甘い栄養分が含まれるようになり、それを卵から生まれた赤ちゃんがなめたことで子育てに革命が起きました。子どもは甘い汗を頼りに育つようになったのです。母乳さえあれば子どもが育つようになり、母乳がつくる絆が母への愛情へとつながっていったのです。

長い年月を内にDNAはときどき変化を起こしますが、そのほとんどが役に立ちません。母乳のように奇跡的に役立つものが生まれることがあるのです。



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