2015年09月20日

カンブリア宮殿|とくし丸社長_住友達也

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カンブリア宮殿|とくし丸社長_住友達也



全国の買い物難民を救う
移動スーパー「とくし丸」


移動スーパー「とくし丸」は、小さな車に野菜やお肉、刺身などの生鮮食品や惣菜、日用品などを載せて、高齢になり自らの足で買い物に行くことができなくなった人々の家を回ります。

庭先まで車でやってくる「とくし丸」は、一軒一軒を回ることでお客と深い信頼関係を築いています。

その仕組みは、まず地元スーパーがとくし丸に導入依頼を行います。とくし丸は個人事業主に研修を行い、商品は地元スーパーが個人事業主に提供する形になっています。

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スーパーにとっては車両の導入や人を雇うことなく手軽に導入できるというメリットがあります。つまり、リスクを負うことなく買い物に困った人々を救い地域に貢献できるということで、まさに売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」の商売となるのです。

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とくし丸の創業のきっかけ

1957年徳島・阿波市生まれの住友さんは23歳の時に4畳半の下宿で雑誌を創刊しました。徳島の情報を掲載したタウン情報誌「あわわ」は、月4万部発行され、徳島では誰もが知る雑誌となりました。

そんな住友さんがとくし丸のビジネスを思いついたのは50代半ばになった頃でした。近所の人が自動車が運転できずに買い物に行くことが困難になっているという事態を母親の話から知った住友さんは、その問題を解決すべく2012年に移動スーパー「とくし丸」を創業したのです。自ら商品を売り歩くなかで独自のモデルを作り上げました。


儲かる秘密|市場調査

ビジネスにならないと思われる過疎地でさえ黒字を出している「とくし丸」のビジネスの秘密は、徹底した市場調査にありました。その方法は、買い物に困っている人を見つけ出すために、一軒一軒歩いて地域をまわるというものです。そんな地道な聞き込みによって本当に困っている住民を探し出し、点を線にすることで確実に収益を上げるコースを作り上げます。

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目指すは地域の自立

「とくし丸」が大切にしているのが、「地域が自立して生きていくための工夫」です。その一つが、個人事業主は担当するエリアの出身者を採用することです。同じ地元の出身者であるために深い信頼関係を築くことができるといいます。

また、地元商店があれば、その店の半径300mでは営業をしないと決めています。その理由は、地域のお店の競合になるのではなく、共存を目指すためです。

さらに、とくし丸の商品価格には10円が上乗せされています。これは、どうして黒字化できないときに考えた苦肉の策でしたが、いまでは「とくし丸」を地域を支えるために必要な仕組みの一つとしてお客に理解されています。





posted by CYL at 00:35 | カンブリア宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年09月13日

カンブリア宮殿|崎陽軒社長_野並直文

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カンブリア宮殿|崎陽軒社長_野並直文



最強商品を生む究極のローカル戦略



崎陽軒の歴史=横浜名物の歴史

崎陽軒の歴史は横浜に名物をつくる格闘の歴史でもあります。1908年に横浜駅の売店として創業した崎陽軒ですが、どんな商品を扱ってもまったく売れませんでした。

その原因のひとつは横浜の立地にありました。多くの人は東京駅で弁当を買って横浜では、まだ食べている最中、一方で、大阪からやってくる人は東京駅まであとわずかな横浜で弁当を買う人がいなかったのです。さらに当時の横浜は人口50万人に満たない小さな地方都市のひとつで、目立った名産品はありませんでした。

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そこで初代社長の野並茂吉は、横浜の名物になる商品を作ろうと考えたのです。茂吉が目をつけたの中国人が住んでいた南京町の食堂で出されていたシュウマイでした。シュウマイは当時、ほとんど知られていませんでした。茂吉は中国人調理人をスカウトし、駅弁として食べやすいシュウマイの開発に乗り出しました。そして1928年に崎陽軒のシュウマイとして商品化しました。

茂吉はシュウマイを横浜名物として売り出すために大胆な戦略に打って出ました。それが横浜駅に現れた赤い服を着た容姿端麗な女性たちでした。彼女たちはシュウマイを駅のホームで手売りするシュウマイ娘でした。

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目指すは地域密着ローカルブランド

現在、社長を務める野並直文さんは、1972年に3代目として入社しました。そのとき、崎陽軒は大きな岐路に立っていました。というのは、1967年に長期保存可能な真空パックのシュウマイを発売し全国展開を視野に入れていました。このまま全国ブランドとしてシュウマイを広げていくのか、それとも地元の横浜に根ざした企業としてやっていくのか迷っていました。

結果的には、後者を野崎さんは目指すことにし、経営理念には、「ナショナルブランドは目指さず、真に優れたローカルブランドを目指す」と掲げています。その証拠に、崎陽軒のシュウマイを買っていくお客さんの多くが、夕食のおかずなど日常の品として買っていくのです。さらに横浜市民にはお弁当の食べ方にまでこだわりを持つ愛好家がたくさん存在します。シュウマイ弁当の他に、現在、崎陽軒ではブライダルや飲食店を展開する複合施設をつくり横浜市民の憩いの場を提供しています。

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支持される理由:冷めてもおいしい!

崎陽軒のシュウマイは、横浜駅周辺に14店舗あります。いま、日本で一番売れている駅弁が「シュウマイ弁当」です。横浜駅前にある崎陽軒の本社の地下には巨大な弁当工場があります。売れる側からどんどん作って売り場に届けています。

作りすぎによる廃棄を防ぐため、各店舗の売れ数と在庫数、販売状況、横浜市開催のイベント情報、気温など過去のデータに照らし合わせて需要予測を行い、生産数を調整しています。

崎陽軒のシュウマイが支持される一番の理由は、冷めてもおいしいということです。弁当の弱点を強みに変えているのです。シュウマイ弁当のメインのシュウマイが冷めてもおいしい秘密はオホーツクの海で取れる天然のホタテを乾燥させて干し貝柱にすることで甘みを凝縮され、それを豚肉に混ぜることで、冷めたときに豚肉からでる臭みを抑えています。

ご飯は、蒸気炊飯方式という蒸気で蒸して炊くというおこわと同じ特殊な炊き方をすることによってモチモチとした歯ごたえを生んでいます。さらに、弁当の容器の原料には、現在主流のプラスチックではなく、エゾマツやアカマツなど天然木を使用しています。そのため、木の容器が水分を調節することでお櫃のような役割を果たし、冷めてもご飯を美味しく食べることができるのです。


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2015年09月04日

カンブリア宮殿|ヤマハ社長_中田卓也

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カンブリア宮殿|ヤマハ社長_中田卓也


音楽教室で文化を育て楽器市場開拓
ヤマハの感動戦略



ピアノでおなじみのヤマハは、本社を静岡県浜松市に構える従業員約2万人、売上高の4322億円の大企業です。ヤマハの最大の特徴は、様々な楽器をつくる世界唯一の総合楽器メーカーということです。たいてい楽器を製造販売する企業はひとつの楽器に特化しています。

ピアノ世界シェア1位

ヤマハのピアノは世界シェア32%を占め世界トップに君臨しています。ヤマハ掛川工場のピアノの生産台数は年間約2万台を数えます。その製造工程は、高価だったピアノを安くするため、製造工程が一部機械化されています。それらの機械はすべてヤマハが自社開発をしたものを使っています。機械化の一方で美しい音色をつくる工程は人の手で行われています。

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創業者|山葉寅楠

ヤマハを創業したのは山葉寅楠です。1887年、尋常小学校のオルガンを修理したことがきっかけでした。山葉は、学校に目をつけ、よいピアノを作れば学校に売れると考えました。やがて日本中の学校が販売先になっていきました。

そんな中、山葉は、ピアノ以外の需要があることに気がつきました。ハーモニカ、縦笛、木琴など、子供たちが手に取る楽器をつくったところ、売れに売れたのです。それがヤマハが総合楽器メーカーになる礎となりました。

4代目社長|川上源一
ヤマハ音楽教室開校

1953年、4代目社長の川上源一は、欧米視察に訪れた際にある家庭に招かれました。川上さんをもてなしてくれたのは家族による生演奏でした。ギターやピアノを生き生きと演奏する姿を目の当たりにした川上さんは衝撃を受けました。当時の日本では家庭で音楽を楽しむ文化はなかったからです。

そこで、”楽器を演奏し、音楽を楽しむ文化を日本にもつくろう”と考えました。そうすれば、学校だけではなく、一般家庭にも楽器の需要が掘り起こせると考えたのです。そこで川上さんは1954年、実験教室を開設、現在のヤマハ音楽教室です。

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個人指導からグループに

従来のピアノ指導は個人指導が当たり前でしたが、それをグループ制にし、友達と音楽を楽しんでもらう仕組みとしました。人間というのは、グループで学んだ方が、楽しさが出たり、競争したり、一緒に喜んだりすることができると中田社長はいいます。

独自メソッド考案

さらに、ヤマハ音楽教室は独自のメソッドを考案しました。そのひとつが、まず音を聞き、ドレミで歌うというものです。すると音を聞いただけで、その音階がわかるようになります。歌って楽しんでから楽器を弾くという方法です。ヤマハ音楽教室は、この耳から学ぶというメソッドを確立したことが評価され、戦後日本のイノベーション100選に選出されています。

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音楽を楽しむ人が増えなければ楽器は普及しないと考えた川上さんは、音楽教室で楽器が売れる下地をつくりました。その戦略は見事にあたり、1954年には、生徒数150人、国内ピアノ販売台数1万台だったのが、1964年には、生徒数20万人、国内ピアノ販売台数が13万台となりました。

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ピアノ版のフェラーリを目指す

ピアノ世界シェア1位のヤマハですが、プロが使う最高機種においてヤマハはトップブランドではありません。そこで、現在ヤマハは、世界のトッププロに選ばれるピアノ、その悲願を叶えるための挑戦を続けています。

その挑戦に立ちはばかる最大のライバルは、スタインウェイ&サンズです。アメリカの150年以上の歴史を持つメーカーは、最高級ピアノの代名詞となっています。 

ヤマハが目指すのは、車でいえばフェラーリだと中田社長はいいます。フェラーリは、商売としては世界一ではないが、誰もが憧れる車です。そんな誰もが憧れるピアノをつくりたいというのが現在の目標となっています。


新たな感動|ボーカロイド

ヤマハの企業目的は、新たな感動と豊かな文化を世界の人と一緒につくることです。次々と新しいもの、これでしかできないというものを提供し続けるそれがヤマハの存在価値だと中田社長は語ります。

そんなヤマハが開発したボーカロイド(通称ボカロ)が10代のカラオケを変えてしまいました。ボカロは、歌入りの曲を簡単につくれるソフトです。100種類以上の歌声が収録されているので好みの歌声で楽曲がつくれます。その最大の特徴は、人が歌えない高音や早口の音楽がつくれるというものです。開発者は10年以上かけてボカロを育ててきました。

そしていまボカロでつくった曲が10代のカラオケランキングの半数を占めるほどの人気を博しているのです。ボカロでつくった高音や早口の曲を若者たちが歌うとは、ソフトを開発したヤマハも想定外のことでした。ヤマハがつくったソフトをきっかけにして若者の間に新たな感動が生まれたのです。それはまさにヤマハの企業目的と重なります。

さらに、ヤマハはボカロネットというサービスを開発しました。歌詞を入力すれば自動で作曲してくれるのです。作曲という高いハードルを低くすることで誰もが曲をつくれるようになりました。



posted by CYL at 12:44 | カンブリア宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年08月28日

カンブリア宮殿|西川産業社長_西川八一行(47)

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カンブリア宮殿|
西川産業社長_西川八一行(47)


家庭用寝具市場は、2014年には7345億円とここ5年で25%アップする成長産業です。

西川産業といえば、羽毛ふとんで有名ですが、まくらやベッドなどあらゆる寝具を手がけています。その年商は、334億円で寝具業界トップを走り続けています。西川産業は、睡眠の質を上げることで、翌日を変えて病気になりにくい体にしていくことを目指しています。

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西川産業:ルーツは近江商人

西川の創業は1566年、2016年には創業450年になる超老舗企業です。時は戦国時代、今川義元が織田信長を破った桶狭間の戦いの6年後、初代西川仁右衛門が近江で行商をはじめたのが始まりです。その二代目の甚五郎は江戸に出て大ヒットを生みました。近江蚊帳というもえぎ色と朱色で色付けした蚊帳が江戸で爆発的にヒットしたのです。その後、明治時代1887年、その当時、ふとんは各家庭で手作りされていましたが、11代目はふとんを日本で初めて商品化しました。

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現社長は婿養子

西川さんが、大学を出て入社したのは大手の銀行。そこで頭角を現し入社3年目には、ニューヨーク支店に配属されエリート街道を歩んでいました。そんな折、1993年に勤務していた世界貿易センタービルで地下爆破テロ事件が発生し、西川さんはその時、ビルの中にいました。死が頭をよぎった西川さんは自分には他にやるべきことがあったのではないかと考えたといいます。その頃、西川産業の元会長の姪と出会い結婚し、金融にはないモノをつくって売るという商売に興味をもち西川産業に入社を決めました。入社から10年が経過した2006年には38歳の若さで社長に就任しました。

大ヒットマットレス「AiR」開発の裏に

しかし、就任当時の西川産業は決して順風満帆ではありませんでした。その売り上げは落ち込み、ピーク時の半分になっていました。当時、西川さんには会社消滅の危機感があったといいます。その当時の商品は、おとなしくどこか似たようなデザインで、購買層は年齢が高めの人がほとんどでした。そこで、起死回生を狙って開発したのがマットレスのAiRでした。しかし商品化までは困難の連続でした。

とくに社員の反対にあったのは、西川さんが提案したマットレスの色でした。西川さんが提案したのは、赤と黒のツートンカラーですが、これまで取り組んだことがない色で、明るい色は売れないとされていた社内からの賛同をなかなか得ることができませんでした。

心が折れそうになったとき、西川さんが通っていたのが、近江八幡市にある西川産業がはじめて商売を始めた場所でした。そこには、道具に色を塗らない時代に二代目の甚五郎がもえぎ色と朱色に染めた色付きの蚊帳がありました。西川さんはそれを見て先代から背中を押してもらっていたのです。

1年をかけて社員の賛同を得た西川さんは、AiRを発売し、累計35万枚を売り上げる西川史上最大のヒット商品となっています。さらにAiRの成功は、社員の間に新しいことへ挑戦する空気が生まれたといいます。西川さんは、色を変えることよりも社員の気持ちを変えることに時間がかかったと語ります。

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西川さんが、社長を引き受ける際に、元会長から言われた言葉が「革新の連続が伝統だ」という言葉です。西川さんが、実感しているのは、何を残して何を変えるのかの判断が難しいということです。西川さんが残すものとして大切にしているのが、西川産業のルーツである近江商人の商いの心得でした。

近江商人は、三方良しという、売り手、買い手、世間、すべてが喜ぶ商売の心得で繁栄を築いてきました。この教えを守ろうと社員を説得したのでした。つまり、卸業を営む西川産業ですが、取引先に商品を納めたら終わりではなく、消費者に向けて新しいマーケットをつくっていくことを目指しているのです。いまは、一人一人のニーズに合わせてサービス・商品を提案することが大事な時代だと西川さんは語ります。

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西川産業の取り組み

日本睡眠科学研究所
睡眠を科学的にとらえ研究する部署を日本ではじめてつくったのが西川産業です。その目的は、科学的な裏付けをつくっていくことにあります。ただ古いだけの老舗ではなく同時に最も新しいこともやっていくのが西川産業です。

店舗改革
女性若手社員が責任者を務めるのが、パステルカラーの売り場で、自分にあったかわいい枕がつくれるお店「ピローウィーカフェ」です。若い女性をターゲットにしたオーダー枕のお店で、体の形状を図り個人にあったまくらの形を提案します。枕の中に入れる素材は7種類から選択し、完成までおよそ30分で値段は1万円です。

西川チェーン|眠りの相談所
現在、全国に約350店舗ある西川の商品を販売するチェーン店を眠りの相談所にするプロジェクトが行われています。これまでのチェーン店は寝具を販売することだけが目的でしたが、眠りの相談ができるサービスを加えることにしたのです。

西川産業のオリジナル資格である羽毛ふとん診断士の資格をつくり羽毛ふとんのリフォームなどの相談や、スリープマスターと言われる睡眠に関する専門知識を取得した証を持った人による寝る姿勢など睡眠に関する相談を無料で行えるようにしてお客との接点を増やすことを目指しています。



posted by CYL at 15:17 | カンブリア宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2015年08月24日

カンブリア宮殿|テンポスバスターズ創業者_森下篤史

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カンブリア宮殿|
テンポスバスターズ創業者_森下篤史

社員が変わる!独自すぎる経営術



日本最大の厨房機器リサイクルチェーン「テンポスバスターズ」は、単に商品の安さだけではなく、飲食店を開業する人が必要とする資金調達や集客、スタッフ募集などのサービスを提供していることに、人気の理由がありました。

そして、社員が立候補して社長になれるチャンスなど、社員のやる気を引き出す仕組みがたくさんあります。テンポスバスターズは、魅力的なサービスとやる気集団によって右肩上がりの成長を続けている企業です。


7つの事業をつぶした破天荒人生

父は役所につとめ、母は教師という堅実な両親に育てられた森下さんですが、自身は真逆の人生を歩んできました。大学卒業後、1971年レジスター販売の会社に就職し、4年でトップセールスマンになりましたが、上層部と対立し解雇されてしいます。それならばと36歳で独立し、1983年に食器洗浄機販売会社を設立しました。しかし、大型の食器洗浄機は需要が少なく販売が頭打ちになりました。そこで森下さんはさまざまな事業に乗り出しました。英会話学校に回転寿し、環境調査会社などを設立しましたが、いずれも失敗してしまいます。

転機となったのが、あるテレビ番組でした。中古品販売会社の社長がゴミ捨て場を物色しながら商品を探しながらも、一方で高級車に乗っている場面を目にしたことでした。商品をゴミ捨て場から見つけて磨いて売ればベンツに乗れると考えた森下さんは、食器洗浄機販売の経験を生かして、1997年に中古厨房機器に絞ったテンポスバスターズを設立したのです。

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テンポスバスターズが人気のワケ

テンポスバスターズが、飲食店を開業したいという人々から頼りにされる理由は、単に厨房機器が安いからだけではありません。新店舗の開店にあったって必要なサービスを提供しているからです。そのひとつが、集客サービスです。有料ですが、開店を知らせるチラシを店舗周辺に向けてファックス送信をしてくれるのです。また、人材採用サービスでは、専用の求人サイトでアルバイトなどの募集を代行してくれます。さらに、資金調達の相談にも乗ってくれるので、金融公庫などからの資金が借りやすくなるメリットがあります。

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やる気を引き出す人事制度

店舗数48、従業員2247人、年商235億円と右肩上がりのテンポスバスターズには、社員のやる気を引き出す人事制度があります。まずは、定年制がないということです。社員は自分の定年を自分で決めることができるのです。また、バツイチクラブ制度というものがあり、一度退職しても元の職場に戻ってくることができます。しかも、退職前の待遇で復職できるのです。

さらに、フリーエージェント制という制度では、従業員が異動を希望した場合、直属の上司の許可がなくとも受け入れ先の店長が了承すれば異動できます。また、その反対も可能で、他店に欲しい人材がいれば引き抜けるドラフト制度があります。

そして、社員のやる気を引き出す人事制度の極め付けが社長椅子争奪戦です。4年おき行われ、店長以上の人であれば誰でも社長に立候補ができるのです。審査項目は、目標利益の達成度合いや教育力など、会社の監査役などが採点し、トップだった人が社長の椅子と年収2000万円を獲得するというものです。現在の社長は、42歳でエリアマネージャーから社長へと一気に階段を駆け上がりトップとなりました。

新たな事業|外食チェーンの再生

森下さんが現在取り組んでいるのが、外食チェーンの再生です。再生の肝はスタッフの意識を変えること。現在、カフェやレストラン、居酒屋など7つの外食チェーンを再建中です。

例えば、倒産寸前だった「ステーキあさくま」では、メール会員の獲得数、土産物の売り上げ予約件数、限定メニューの販売数などをもとに、店舗ごとのランキングを導入し、上位へランクされた店長には報奨金を出す仕組みを導入しました。また、毎月の利益の前年比増加分の10%を店舗スタッフに分配することで、スタッフは、やる気集団へと変貌し、倒産寸前だった会社は、5年でV字回復を果たしました。



posted by CYL at 09:36 | カンブリア宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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