2015年07月22日

NHKスペシャル|政治の模索〜吉田茂と岸信介〜

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NHKスペシャル|戦後70年ニッポンの肖像



政治の模索
第1回保守・二大潮流の系譜
吉田茂と岸信介



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1960年、神奈川県大磯町にある吉田茂の邸宅をかつて吉田茂の政敵と言われる人物が訪ねていました。ときの総理大臣の岸信介です。その時の映像が残っていますが、二人は笑顔を見せていました。しかし、戦後政治をめぐって熾烈なせめぎ合いが行われていました。

吉田茂|経済発展優先路線
戦後、占領時代の大半で総理大臣を務めたのが吉田茂です。焦土と化し餓死者が出るほどの食糧難だった日本で、吉田茂が考えたことは経済を立て直し、復興を実現することでした。

吉田茂は戦前、外交官としてアメリカとの関係を重視して開戦に反対を唱えていました。戦後は、マッカーサーによる占領政策が続く中で、国力の回復に努めました。まず吉田が取り組んだのが、平和主義を盛り込んだ新憲法を広く国民に浸透させることでした。

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岸信介|新憲法制定の自立路線
一方、岸信介は、吉田茂が総理大臣にあった頃、GHQによって東京の巣鴨プリズンに拘束されていました。戦時中、東条内閣の閣僚を務めていた岸信介は、開戦の証書に署名しました。GHQはその罪を問いA級戦犯容疑者として逮捕したのです。収容から3年後、不起訴となり釈放されました。国家の自立を目指す岸の路線はここから動き出しました。

GHQによる公職追放で故郷の山口県岩国市に戻っていた岸信介は、禅寺で開かれた地元の青年たちの集まりで自らの秘めた想いを語りました。それは日本再建のため、巣鴨での3年を経て、再び政治の舞台へ立つ決意を新たにしていました。

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吉田茂|サンフランシスコ講和条約&日米安全保障条約
吉田茂は1951年に歴史の晴れ舞台に立ちます。サンフランシスコで講和条約を結び、日本の独立を回復し、GHQによる占領に終止符を打ちました。さらに、同日、独立後もアメリカ軍の駐留を認める日米安全保障条約を結びます。吉田茂は、アメリカの軍事力に依存することで、軽武装のまま経済復興に集中できると考えたのです。”金のかかる軍備はアメリカもち”と当時のインタビューで吉田茂は語っています。結果的にはこのときが吉田政権の絶頂期となりました。

岸信介|政界復帰&自民党誕生
独立回復の前後から公職追放を解除された戦前の指導者たちが次々と政界に復帰します。その中には岸信介の姿もありました。吉田茂が率いていた自由党に所属した岸信介は次第に吉田茂への対決姿勢を明確にしていきました。占領下で作られた憲法は改正しなければならないと主張したのです。

そんな岸信介が取り組んだのが自らの考えを実現するための基盤づくりでした。憲法を改正するために保守政党の団結を試みました。一方の吉田茂は、岸信介の動きに対して政権奪還のための動きに過ぎないと批判しました。当時の世論は岸信介に追い風でした。その結果、吉田は、延べ7年にわたって運営してきた政権の座を追われました。翌年の1955年、岸信介らが唱えてきた保守合同が実現し、自主憲法の制定を党の理念として掲げる自由民主党が誕生しました。

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岸内閣|最優先は安保改定
政界復帰から4年で総理大臣に就任した岸信介が、最優先で取り組んだのが日米安全保障条約の改定でした。それまでの安保条約は、アメリカに日本の防衛義務がないなど岸にとっては不平等条約そのものでした。岸はアメリカと交渉を行って、条約の原則的な改定にこぎ着けます。順風満帆に見えた岸ですが、思わぬ所からほころびがでます。警察の権限を強化した法案を提出しますが、世論と党内からの反発で廃案に追い込まれます。警官の権限強化は、国民に戦前のことを思い出させたのです。これを機に国民の反発の声は安保反対運動に発展し、岸内閣の支持率は26%へと下落します。

岸と吉田の密約
さらに内閣の閣僚であった三木赳夫や池田勇人らが辞任したのです。池田勇人の動きの背後にあったのが吉田の存在でした。池田を自らの後継者として育ててきた吉田は、当時、池田に宛てた手紙の中で、岸の安保改定を厳しく批判していました。

その後、池田は再び入閣し、一転して岸への協力姿勢を示しました。その裏には、安保改定という岸がすすめる自立路線から吉田がとってきた経済優先路線へと戻そうとする思惑がありました。吉田は岸の安保改定に協力する代わりに次期首相候補として池田を入閣させたのです。

1960年5月19日、岸政権は、安保改定に向けて国会承認を得るために会期を延長し、衆議院での単独採決に踏み切ります。ところがこの採決がくすぶっていた安保反対運動に火をつけます。この日を境に国会を取り巻くデモの規模は大きくなっていきました。反対運動は全国に広がり、一週間後には参加者の数は54万人にふくれあがりました。デモに参加していた女子学生が死亡したことで、さらに反対運動は激化します。岸は安保改定を実現したものの政権を維持することはできませんでした。

岸が退陣表明をした日、吉田から一通の手紙が届きました。その内容は次期首相に池田勇人を念押しするものでした。当時、池田とは別に岸の弟の佐藤栄作が後継候補として浮上していました。こうした中、吉田と岸は箱根で秘密裏に会談を行いました。吉田は、佐藤栄作は岸の実の弟であることは周知の事実であるため、間を開けた方がよいと忠告したのです。結果的には、岸は吉田の言葉に従い、その後、吉田路線を継承する池田勇人内閣が誕生しました。

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池田勇人|吉田の経済発展路線を継承
池田内閣が、最優先に取り組んだのが経済発展政策でした。その後、池田のあとに総理大臣となったのが岸の弟の佐藤栄作は、沖縄返還などを実現しましたが、憲法改正には消極的でした。こうした中、アメリカの雑誌に憲法改正に取り組まない自民党を批判した論文が掲載されました。執筆者は岸でした。

その後も経済発展路線が続いた
1968年には日本のGNPが世界第2位になりました。国の調査では9割の日本人が中流意識を持つようになっていました。佐藤政権後の内閣も憲法改正を提起することはありませんでした。こうしたなか、憲法改正を訴えてきた中曽根康弘が首相候補として台頭してきました。80歳を超えて憲法改正に取り組んでいた岸は中曽根に期待を寄せました。しかし、中曽根は総理大臣に就任してからわずか10日あまりで憲法改正を封印します。


つづきを読む|第2回”豊かさの分配”その先に
田中角栄、小泉純一郎、民主党政権






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posted by CYL at 16:15 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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