2015年06月11日

BS世界のドキュメンタリー|スティーブ・ジョブズVSビル・ゲイツ

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BS世界のドキュメンタリー
スティーブ・ジョブズVSビル・ゲイツ


スティーブ・ジョブズの自宅へお見舞いにいったビル・ゲイツはこう語りました。「同じ歳で世間知らずで楽観的なまま事業を立ち上げ大企業に育てた。お互いにライバル関係にあったけどいつも互いをリスペクトし交流があった。」アップルの創業者のジョブズとマイクロソフトの創業者のゲイツは、ジョブズはハードウェアで、ゲイツはソフトウェアで業界をリードしてきました。そんなふたりのライバル関係が私達の世界を変えてきました。創業から二人のライバル関係を追ってみましょう。


創業時|パソコンの元祖”アルテア”の登場

ジョブズとゲイツがまだ学生だった70年代はビデオゲームが登場したばかり、コンピュータと言えばどれも巨大なマシーンで構成されていました。大がかりなコンピュータを使うのは大企業だけに限られていました。その市場はIBMが独占していました。

シアトルの裕福な家庭に育ったゲイツは、高校時代からコンピュータに接する機会が多く、友人のポール・アレンとプログラミングを楽しんでいました。ゲイツが通っていた大学の書店売られていたのが、ポピュラーエレクトロニクスという雑誌です。その1975年1月号の表紙を飾ったアルテアという機械にゲイツとアレンは心奪われました。

アルテアはパーソナルコンピュータの元祖です。スイッチとランプがあるだけで単純な計算しかできませんでしたが、ゲイツとアレンはプログラミング言語BASIC(ベイシック)をアルテア用に開発し、アルテアに頭脳を与えました。プログラミング言語に夢中だった二人は当時からプログラミング言語を独占するのが目標でした。それで大学に行くのを辞め、1975年にゲイツとアレンはマイクロソフト社を創業しました。BASIC(ベイシック)を販売し、次世代にむけたソフトウェアを開発することが目標でした。

同じ年、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックというコンビが現れます。二人にとってもアルテアの登場は大冒険のはじまりとなりました。ウォズニアックは、アルテアをみて自分なら1枚の基盤に設計することができると考えました。一枚に基盤に、電源・キーボード・モニタなどを接続し、パーソナルなコンピュータ「アップルT」が誕生しました。

「アップルT」はウォズニアックのアイデアと設計から生まれました。ジョブズはマーケティング担当でした。さしあたりジョブズの実家のガレージがアップルTの量産工場となりました。マイクロソフトから遅れること1年、1976年にジョブズとウォズニアックはアップルコンピュータを創業しました。

ジョブズもゲイツもコンピュータが重要だということを確信していました。その後目指した方向が違っていました。ジョブズはハードウェア、ゲイツはソフトウェアから世界を変えているという信念を持っていました。


アップルU|2人の出逢い

新しいハードウェアの開発を進めるウォズニアックに、ジョブズは投資家探しに奔走します。カリフォルニアの投資家マイク・マークラが25万ドルを信用保証して提供、アップルの経営に参加します。1977年サンフランシスコで開かれたコンピューターフェアーで新型のアップルUを披露し大評判を生みます。使いやすさを考慮した初のパーソナルコンピュータでした。その売り上げは驚異的でした。

ただし、ウォズニアックが書いたアップルU用の言語は完璧ではなく、アップルUで動くBASICのソフトを探し始めました。そしてマイクロソフトがそれを持っていることを突き止めゲイツに接触したのです。ゲイツはジョブズにソフトを提供することにしました。しかし、アップルUの成功で注目を集めたのはジョブズひとりでした。

ゲイツはその頃、アップルや他のパソコンメーカー向けにBASICを書いて提供していました。 ゾウのように大きなアップルに対して当時のマイクロソフトはネズミのように小さなものでした。ゲイツは、会社を大きくするためにはソフトウェアにかけるしかないと考えていました。ハードウェアにはアップルのほかにもパソコン市場に参入してきたIBMがいたためです。


MS-DOSをIBMに提供

コンピュータはソフトウェアがなければただの箱です。IBMはゲイツに協力を求めました。1980年IBMとマイクロソフトは契約しました。ゲイツは新しいOS「MS-DOS」を開発しIBMの全パソコンに搭載されることなったのです。ゲイツは、MS-DOSをIBMに一括ライセンスしましたがそのとき他のパソコンメーカーにも提供できるように認めさせたのです。IBMは他のメーカーが簡単に自分たちのパソコンを真似できないと思っていたのでゲイツの要求を飲んだのです。

1980年代初頭、ジョブズとゲイツはその頃20代でしたが、正反対の個性を持っていましたが急速に発展する業界で華々しい成功を味わっていました。


マッキントッシュを発売

1984年1月、ジョブズはマッキントッシュを発売しました。シンプルな操作、斬新なデザイン、マウスの登場、アイコンをつかったグラフィカル・ユーザー・インターフェイスに、マイクロソフト社のエクセルやワードのアプリケーションソフトを組み合わせ圧倒的な技術的成功を収めました。

マッキントッシュの開発にマイクロソフトは協力していました。エクセルが初めて搭載されたのもマッキントッシュです。


ウィンドウズの開発

グラフィカルインターフェイスにコンピュータの未来を見たビル・ゲイツはマイクロソフトは自社開発しようと試みました。MS-DOSでは未来はないと感じてマイクロソフトはウィンドウズを売り出すしかなかったのです。

アップルUに提供していたオペレーティングソフトBASICの更新の時、ゲイツは攻撃的な姿勢で臨みました。ゲイツはジョブズに法外な金額をふっかけたのです。マイクロソフトのBASICがないと困るジョブズはしかたなく要求を飲みました。予想外の資金を手にしたマイクロソフトはそれを海外進出の資金に充てたのです。


ジョブズ退任

1983年「砂糖水を売って一生を終える?それとも私と一緒に世界を変える」という殺し文句でペプシコーラからジョンスカリーを引き抜きアップルのCEOに据えました。マッキントッシュの売れ行きが芳しくなく、ジョブズが暴君のような振る舞いをしたため、ふたりの良好だった関係はすぐに終わりを迎えます。

ジョブズの退任は取締役会で決定しました。ジョブズの周りの人間は怒りや憎しみで疲れ果て、採決をとったときは、ジョブズは四面楚歌でした。解任が決まった日、社員が駐車場に集められて創業者のひとりが会社を去ることを告げられても誰のジョブズを気遣う者はなく、やっといかれた騒ぎに煩わせられなくて済むという感じだったといいます。

1985年にアップルを解任されたジョブズは新会社ネクストを立ち上げてコンピュータ業界に革命を起こし続けられると信じました。アップル唯一の天才は自分だという自負があったのです。


ウィンドウズ発売

当時グラフィカル・ユーザー・インターフェイスは頭文字をとってGUI(グーイ)と呼ばれていましたがあるときだれもそう呼ばなくなったことに気がつきました。皆、ウィンドーシステムと呼んでいたのです。モニターに現れるのが窓だったから、ウィンドー、それを名前にしたのがマイクロソフト・ウィンドウズです。

マッキントッシュの遠い親戚のウィンドウズは、わずか10年でほとんどのパソコンに搭載されるようになりました。世界規模で成功を治めました。だれもが必要とする基本ソフトでマイクソフトはマックを完全に打ちのめしました。

番組のインタビューに答えたジョブズは、マイクロソフトに対する辛辣なコメントを発したことを反省してゲイツにお詫びの電話をかけました。マイクロソフトにセンスがないと言って悪かったとジョブズ、謝ってくれてありがとうとゲイツ、これで終わればよかったのですが、ジョブズは「マスコミの前で言ってしまったことは謝るが、マイクロソフトにセンスがないのは本当のこと」だと言ったのです。


アップルへ復帰

ジョブズが立ち上げたネクストは失敗に終わりましたが、ジョブズはのちにコンピュータアニメーションで映画をつくる映画制作会社「ピクサー」への投資で立ち直り、いつもの通り名声を独り占めにします。1995年世界初のフルCGアニメーション映画「トイ・ストーリー」が大ヒット、これは後に続くピクサーの成功のはじまりでした。ジョブズはピクサーの株を上場することで利益を得ました。

一方のアップルはジョブズを追放して10年が経過していましたが、業績はふるわずに倒産の危機にありました。最後の切り札として登場したのが天才ジョブズでした。ネクストをアップルが買収し、ジョブズは古巣に帰り咲くこととなりました。

1996年にアップルに戻ってきたジョブズは、ネクストとピクサーで失敗を成功を経験し、若い頃の狂気は消えていました。ネクストで自分で稼いだ金を失ったことではじめて損益を考えはじめ、事業の成功に注意をするようになっていったのです。

ゲイツはジョブズの復帰を喜んでいました。アップルのような成功した会社が業界から消えるのは損失だと考えていたからです。それだけではありませんでした。当時マイクロソフトはマック向けのアプリケーションソフトの開発を行っていましたので、アップルが潰れるとマイクロソフトのマック部門は道連れになってしますのです。そこで模索した道がアップルとの提携だったのです。

また、ウィンドウズが市場を独占していると提訴されていたので、マイクロソフトの風当たりを弱めるためにもライバルを必要としていたのです。そして、その頃からゲイツは巨大化し過ぎたマイクロソフトの会長職に重荷に感じていくようになり、関心事は徐々に他に打つっていったのです。


ジョブズは広告キャンペーンに新しいスローガン「Think different」を打ち出します。シンプルさへの回帰でした。そしてジョブズはコンピュータはハブ、中心としてiPodやiPhoneなどすべてを繋いで手軽に持ち運ぶ時代だと提唱したのです。

ハードウェアとソフトウェアを組み合わせたジョブズの戦略は、世の中の電子機器への見方を変えました。変革のきっかけはiPodでした。ユーザーフレンドリーな使い勝手とiTunesというソフトによって音楽をダウンロードする形がウケました。当時、音楽会社はおもしろいけど商売にはならないと鷹をくくっていましたが、ジョブズの予想は遙かに上回るダウンロード数となりました。

ゲイツはソフトウェアで世界を変えてきましたが、今度は慈善事業で世界を変えようと考えています。2008年ビル&メリンダ・ゲイツ財団を立ち上げ、世界の人道的な問題の解決に取り組み始めました。


posted by CYL at 07:46 | 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする