2015年06月03日

NHKスペシャル 第2回「”バブル”と”失われた20年”何が起きていたのか」2


NHKスペシャル 戦後70年ニッポンの肖像 
第2回「”バブル”と”失われた20年”
何が起きていたのか」その2


<なぜバブルは膨らんだのか>


理由その2 プラザ合意後の金融緩和

バブルの引き金とされる1985年9月のプラザ合意は、アメリカが求めるドル安を先進5カ国が協調して目指すことを決めたものでした。背景にあったのはアメリカの巨額な貿易赤字です。そんな中で深刻だったのが日米貿易摩擦でした。

円高誘導、金融緩和を日本に求めた
アメリカにとって円高(ドル安)が進めば日本からの輸入価格の上昇に繋がるため、輸入を押さえる効果が期待できます。円高が定着した後に日本が金融緩和を行えば国内の資金量が増え景気が刺激されます。そこにアメリカ製品の輸出を拡大し貿易赤字を解消しようと考えていました。

アメリカFRB元議長 ポール・ボルカーさんは、「日本の産業にはこの時期競争力でも効率性でもアメリカは太刀打ちできませんでした。日本に追い越されてしまう事態だったのです。」と語ります。

一方で日本側で交渉にあたった大蔵省元財務官の大場智満さんは、「日本はアメリカの傘の下だと。日米同盟で日本の経済力が強くなってきたのもアメリカの軍事力が日本をカバーしてくれているからだということは僕は十分わかっているわけです。だから、まとめなければいけないというのは非常に強く思っていました。」と語ります。


利下げでバブルが加速
1986年1月、日本銀行が金融緩和を行いました。公定歩合の引き下げを行ったのです。公定歩合とは日銀が銀行にお金を貸し出す際の金利です。公定歩合を引き下げる(利下げ)と銀行へ資金が流れやすくなり市場の資金が増えるのです。

短期間に複数回利下げが行われたことによって銀行から不動産業への融資が拡大し地価の上昇が拡大していきました。この時、日銀の中でバブルへの危機感が高まっていました。

なぜ利上げを行わなかったか
プラザ合意以降、1ドル=240円台だった円が1年後には150円台となり急速な円高が進んでいました。円高の影響は、日本国内の輸出産業を直撃します。いわゆる円高不況です。

危機感を募らせた当時の宮沢大蔵大臣がアメリカに飛びました。円高が進まないようにべーカー財務長官に協力を求めるためでした。しかし、ベーカー財務長官は円高に歯止めをかけることを保留したばかりか、逆に日本側へ”さらなる利下げ”を要求したのです。

利上げを進言するが・・・
日銀では利上げをすべきという意見がありました。その中心にいたのが日銀生え抜きの副総裁三重野康さんでした。大蔵省出身の澄田総裁に「利下げは不可だ」と進言した記録が残っていました。

しかし、1986年10月31日、先行きの内需拡大、内需振興に有効だとして日銀の澄田総裁は、会見でさらなる利下げを言及したのです。

同日、宮沢大蔵大臣がベーカー財務長官と合意した共同声明を発表しました。円高の進行を抑えるアメリカの合意を取り付けたかわりに利下げを行ったというものでした。

利上げ議論に水を差したブラックマンデー
日銀の理事の間では早く利上げに転じるべきという議論が持ち上がっていました。しかし、その矢先に1987年10月にブラックマンでーが起こりました。ニューヨーク市場を株価の大暴落が襲ったのです。

株価の暴落はアメリカから日本、世界へと伝播していきました。日銀は利上げをすれば経済の混乱を招く可能性があるとして利上げの機運は一気に萎みました。その後、公定歩合の議論はぱったり行われなくなり、利上げを行ったのは1989年5月でした。その間バブルの膨張は続いており、1989年12月29日、東京証券取引所大納会で株価は38000円を超えていました。




posted by CYL at 18:59 | NHKスペシャル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする